明徳館高校で開講している社会人向けの講座「専門郷土史」を週1回受講し
て10年目になります。先日、標記講義を担任の半田和彦先生から教わりまし
たので、会員の皆様にも興味深い内容と思いましたので送信致します。
男鹿には地名の由来にもなった思われる鹿が古くから生息していましたが、
室町時代から当地を支配していた安東氏に狩り尽くされてしまったので、佐竹
藩2代藩主義隆(在位1633~1671)が慶安2年(1649年)に、武具の皮革を
得ることを目的に鹿を3頭放牧しました。
それが53年後の元禄15年(1702年)に農民から鹿が増えて農作物に被害
出ているので、追い払って欲しいとの願い出がありました。藩としては生類憐
みの令が施行されていたので、幕府にお伺いを立て許可を得て船岡村(現在の
大仙市協和町内)のマタギに鉄砲での駆除を依頼しましたが、雪が少なかった
こともあり3頭しか仕留められなかったとの記録があります。
鹿は年間4回出産するので狼、熊等の天敵及び人間の駆除が無い限りは20年で9倍程度に増えるとのことですので、53年後には1千頭にも増殖していた
と予想されますから、大変な被害であったことが想像されます。
このため藩では宝永3年(1706年)から安永元年(1772年)までの67年
間に11回の駆除作戦を展開し、合計6万6千頭を駆除した記録にあります。
比較的詳細な記録が残っている享保15年(1730年)には、代官他武士が6名、足軽8名(うち筒持4名)、勢子(近在の農民で鹿を追うための雇い人)
延べ8千7百人(北1,100人×6日、南7百人×3日)、鉄砲11丁で8千頭を駆除しており、駆除の主な方法は鹿を鉄砲と勢子で入道崎(鹿落としの岬)に追い込み、岩から追い落としたようです。
その後は生息数も急減したこともあり、藩の費用で駆除することはなくなり
ましたが、猟師に狩猟許可を出したり、マタギを常駐させたりして駆除に努め
たところ、安政6年(1859年)を最後に藩の公式記録に男鹿で鹿による被害
及び駆除が記載されなくなりましたので、その頃に男鹿から鹿がいなくなった
と推測されます。
(秋田人変身力会議 事務局長 永井 健)