10月4日に「変身大賞受賞者と語る秋田の未来」をテーマに大町協働ビルで
シンポジウムを開催しました。本稿はプレゼンテーター3名のうち地域資源の会
秋田代表の加藤真一氏の掲題をテーマとした講演要旨です。
- はじめに
第五回変身大賞を受賞した地域資源の会代表の加藤です。私は昭和25年生
まれで、大学紛争のため東大の入試が行われなかった昭和44年に東京の大学
に入学しましたが、当時も今と同じように東京一極集中の時代でしたので、こ
れを是正するためには、地方自治の確立が重要ではないかと考えて、篠原一先
生のゼミで勉強し、先生の勧めもあって革新の葉山峻氏が市長を務める神奈川
県藤沢市で教職に就きました。
当時の神奈川県は地方から中央政府を包囲するという考えを持つ革新首長が
多く、横浜国大の教授から知事となった長洲一二氏、社会党の飛鳥田一雄横浜
市長、大学教授から転身した正木鎌倉市長、そして葉山藤沢市長が活躍してお
りました。
日本の民主主義は観客民主主義と言われておりますが、私は見るよりは参加
すべきと考えて積極的に市政に関わり、両親が教員だったことから教育にも関
心があったので、教員をしながら昭和47年から平成8年まで6期24年間市長
を務めた葉山市政を支えました。
大学に入学したのは大学紛争が真っ盛りの頃で、学生運動家からはよく「君
達は何故大学に行くのだ」と詰問されました。あの頃の学生運動に対する評価
は未だ終わっていませんが、確かに破壊行為はありましたが「知とはなにか、
学ぶとはどういうことか」という根源的な問題を問いかけられ、考えさせられ
た時期でもありました。
一方では学長に対して「おいお前はどうなんだ」と中国の文化大革命のよう
な秩序を無視した行為も行われておりました。
そういう状況で自分はどうするかと考えた時、就職がターニングポイントだ
ったように思います。秋田から上京して東京で学んでいた高校時代の学友の
95%は秋田に帰ったようでした。
私はゼミの先生の勧めもあり藤沢で就職し、住み心地も良かったので、日本
のカルフォルニアと言われる湘南で定年まで過ごすことになります。
- 帰郷を思い立つ
還暦近くになってくると藤沢での30年間の経験を故郷で活かしたいとの考え
が強くなってきました。湘南はご案内のとおり気候は温暖で、波も静かな海岸線
に面しており「狂爛吼え立つ男鹿半島よ」で育った人間にとっては、物足りない
と思うようになりました。
男鹿に帰省する度に長く教職にあった母親が、あの学校が無くなった、この学
校も無くなったと嘆いておりました。
その言葉を聞くと小学校の担任の先生が、「秋田は水田と油田の二つの田があ
る恵まれた処であることを誇りに思え」と話してくれたことを思い出します。
私が小学生であった昭和30年代の秋田は、人口が135万人とピークを迎えた
頃で、国体を開催する等活気に満ちた時期でしたが、そんな秋田が何故このよう
になったのかと考えるようになり、定年を迎えた7年前に秋田に帰ってきまし
た。
帰って直ぐに先ほど講演した蜘蛛の糸の佐藤理事長に会いに行きました。藤
沢に居る頃から秋田の自殺問題が気になっていたからです。豊かな秋田がどう
して自殺なのだとの思いから話を聞くに行ったのですが、理事長は、「焦らずに
ゆっくりやりましょう」と穏やかに話してくれました。
その後、秋田人変身力会議に入会し研究会に参加するなかで、秋田の現状を
より詳しく知るようになり、地域を活性化するための活動に一層意欲的に取組
むようになりました。
- 地域活性化への想い
還暦を迎え子供達も自立したので、宿願であった地方自治の確立による地方
の活性化に取組むために帰郷しましたが、若い方が地域の活性化に関心を持ち
始めている等、漸く地方の時代が来たと感じております。
秋田県の人口が減少している要因としては、様々なことが考えられますが、県
民性も一つの要因ではないかと思います。
私は30年間の教員時代に積極的に家庭訪問を行いましたが、その際は両親の出身地を必ず聞くようにしました。
その印象としては東日本と西日本では県民性がかなり違うとの印象を受けました。秋田県人はおとなしく引っ込み事案で、良く言えばおくゆかしくて、受け
身なのに対して、九州人は徹底的に攻める、直ぐ手を挙げて発言する等、何事にも積極的でした。
また、神奈川県の教員の出身地は地元が半分、他県が半分でしたが秋田県出身
者で訛っていたのは私だけでした。私以外はきれいな標準語で話す方々でした
が、よく言われる「いい振りこき」の面もあるのでしょうが、堅い殻に閉じこも
っているのではないかとの印象を受けました。
九州出身の野見山前日銀秋田支店長は「秋田の人は私の話を他人事のように
聞いている感じがする。」とも話しておりました。
また、十文字出身の泉谷閑二氏(医学者、思想家)は、「秋田は悪い意味で村
社会が残っているのではないか」と言っております。村社会では集団の中で集団
と違う価値観で生きていくことは、憚られるということでしょうか。
私は秋田県人を批判している訳ではありません。県民性にはそれぞれ長所も
短所もあると思います。秋田県人の長所は粘り強さだと思います。
秋田の人は「しょしがり」でスロースターターですが、一旦、こうと決めたこ
とは粘り強く最後までやり通す人が多いのではないかと思います。
甲子園で秋田商業と北照高校(北海道)戦を応援した時に、大阪のおばちゃん
が近くに来て「秋田は元気ないでぇ、こんなんでは負けるでぇ」と大声で話して
いたことを思い出します。
よく見たら選手もスタンドもガチガチになっており、相手に2~3点先行され
て8回に1点返し、9回に満塁になったものの負けてしまいました。スロースタ
ートが災いしたのかも知れません。
西日本の府県と比較すると、スロースターターで瞬発力も劣るかもしれませ
んが、佐藤理事長の民間主導の秋田モデルのように、粘り強く努力すれば資源が
豊かで人情味のある秋田の再生は必ず出来ると確信しております。
そんな考えで様々な地域を活性化するための活動を行っておりますが、活動
の輪を広げることで仲間も増えますので、楽しみながらやっております。
(文責:秋田人変身力会議 事務局長 永井 健)